解決に「特効薬」を求めない~いじめの実態把握とエスカレートさせない環境づくり~

2017年2月8日

いじめについて論じる際、「いじめは犯罪とみなして、加害者を罰すれば解決する」「死ぬぐらいなら学校になんて行かなくていい」という意見があります。しかし、これらは実態を無視した議論につながりやすいものです。

誤解生むメディア発信のイメージ

今回は、いじめについて論じる際に、注意しなくてはならない議論の仕方について取り上げましょう。
メディアがいじめ問題について取り上げるのは、いじめによる自殺事件が発覚したときなど、極端な事例ばかりです。そのため、「今のいじめは暴力化している」「陰湿化している」「増加している」という印象を抱いてしまうのは当然です。
しかし、統計からは、今のいじめが過去のいじめと比べて、増加・陰湿化しているという結論は導き出せません。

現代は、「いじめが増加している社会」なのではなく、「いじめが問題視されるようになった社会」なのです。これまで見過ごされてきたいじめも、だんだんと「対処すべきだ」という意識に、社会全体が変わってきました。
にもかかわらず、メディアが連日、極端ないじめ事例を取り上げ続けることで、「いじめが増加している社会」なのだと多くの人が勘違いし、レアケースを基に、誤った対策を議論してしまうことがあります。

そんな中で、TVコメンテーター等から出がちな意見が2つあります。
「いじめは犯罪とみなして、加害者を罰すれば解決する」というものと、「死ぬぐらいなら学校になんて行かなくていい」という意見です。
どちらも「部分的には」正解なのですが、 一方でいじめ問題の実態を無視した議論につながりやすいものです。

「いじめは犯罪とみなして、加害者を罰すれば解決する」の問題点

まず 一つ目の「いじめは犯罪とみなして、加害者を罰すれば解決する」という意見について。

確かに、恐喝や極度の暴力といったいじめは、犯罪として取り扱うことが妥当でしょう。しかしいじめには、「暴力系のいじめ」と「コミュニケーション操作系のいじめ」があり、現代日本の場合、大半のいじめは後者です。
すなわち、「シカトされた」「嫌なあだ名をつけられた」「いやな役割を押し付けられた」といったいじめこそが主流なのです。これらを「犯罪」として取り扱い、「警察に通報」しさえすれば、解決するでしょうか。いいえ、難しいでしょう。

「コミュニケーション操作系のいじめ」は、被害者にそのいじめの記録を付けさせたり、丁寧な相談を行ったりすることが重要となります。だからこそ、どんな指導がより適切なのか、現場では頭を悩ませるのです。

外野からの「加害者を罰すればいい」という意見は、「特効薬」を求めるあまり、いじめの実態を無視してしまう結果となっています。
教師の目を盗んで行われる「コミュニケーション操作系のいじめ」に対して、教育現場でいかなる指導(早期発見・早期解決)をすればいいのかという議論が抜け落ちているからです。

もちろん忘れてはいけないのが、重度ないじめは、軽度ないじめを放置し、長期化させることによって生まれるという、「いじめエスカレートの原則」です。
極度に暴力的ないじめ事例というのは、軽度ないじめを早期発見・早期解決できなかったからこそ、招いてしまうということです。
例えば入学式初日に、恐喝といった極端ないじめ事例が発生することはごく稀でしょう。そこで重要なのは、「そもそも犯罪的ないじめ事例にまで育てない」という発想をもつことです。

もちろん、犯罪として通報するのが望ましいケースに対しては、粛々と対応すべきです。
他方、いじめは、さまざまな「養分」を吸って育つもの。ストレスという養分。対処しない先生という養分。見て見ぬ振りする環境という養分。
そうした「いじめ養分」を与えず、いじめの悪化を「予防」するという発想が重要です。メディアに煽られた論調の中では、こうした観点の議論が出てきません。

よく、「いじめは楽しいから行われるのだ」という言い方がなされます。
その通り。他人を馬鹿にして優位に立つというのは、快楽を伴います。しかし、「いじめこそが何よりも楽しい」わけでは決してありません。
いじめに対して適切なペナルティが加えられることのほか、いじめ以外のガス抜きを早期に実践したり、そもそものストレス要因を取り除いてやったりするなど、いじめをするインセンティブ(動機づけ)を下げてやることが重要です。見方を変えて言えば、「加害者にならずにすむ環境」をつくってやることが必要なのです。

「死ぬぐらいなら学校になんて行かなくていい」の問題点

もう 一つの意見、「死ぬぐらいなら学校になんて行かなくていい」について考えてみましょう。

緊急事態において、不登校という選択肢を提案することは現実的でしょう。
では、学校に行かなくなったとき、その児童・生徒にはどういう手段で教育の機会が確保されるのでしょうか。大半のコメンテーターはそこまで深く考えて発言していません。

忘れてはいけないのですが、「学校に通う」というのは、教育を実現するための手段のひとつにすぎません。
しかしこの国では、「学校に通う」以外の手段が、しっかりと育てられてきませんでした。フリースクールやホーム・ベースド・エデュケーション(家庭中心の学習)をはじめ、民間で活動している団体は増えつつあるものの、未だ多様な教育の在り方は発展途上なのです。

文科省の統計では、いじめや友人関係による児童・生徒の自殺は、毎年十数件から数十件程度、発生しています。
他方で、不登校者の数は、年間で十万人以上にものぼります。「不登校生徒に関する追跡調査報告書」(文部科学省、平成26年度)によれば、不登校経験者にアンケートを行ったところ、いじめを含む友人関係がきっかけとなって不登校に至ったと答えた者の割合が、52.9%となっていました。

つまりは、すでに多くの児童・生徒が、ミスマッチな人間関係から免れる手段として、「学校に行かない」ことを選択しているのが実情なのです。
コメンテーターに言われるまでもなく、多くの児童・生徒が「死ぬぐらいなら学校に行かない」を実践しています。

「不登校」から環境整備を熟慮して

私は、「学校から逃げてもいい社会」、より丁寧に表現すれば「<学校>以外の教育オプションが充実している社会」を実現することには大賛成です。しかし、安易に「学校から逃げてもいい」と言ったとき、多くの視点が抜け落ちていることを危惧します。

まず大前提として、私たちはすべての児童・生徒が安心して教育を受ける権利を満たさなくてはならず、そのためには学校を安全・安心な環境にする努力をすることが重要です。
「学校に行かなくてもいい」という意見は、「不機嫌な教室の直し方」「ご機嫌な教室の作り方」をめぐる議論を成熟させず、問題を個人化・矮小化してしまいます。学校に行かないとその児童・生徒が選択した時点で、今の社会では教育が「自己責任化」されてしまうのです。

2016年に、Eテレ『ハートネットTV』と行った調査があります。不登校経験者444人にアンケートを行ったところ、世帯年収によって、家庭学習にかけられる金額に大きな開きがありあることがわかりました。他方、その教育費の占める割合は、所得が低い世帯ほど高い。つまり、家庭教育費の「痛み」が大きいことがわかったのです(図)。

学校というのは、公教育を実現するための手段ですが、その学校に行かないとなれば、家庭の経済格差がダイレクトに児童・生徒に影響しやすくなります。「学校に行かないなら、他の選択肢を自己責任で選べ」というのが現在の社会です。
その結果、貧富の差によって、教育にかけられる支出が変わり、その影響も大きく表れやすくなるのです。

いじめと不登校の問題は根深いものです。
学校からいじめを減らすさまざまな試みを実践する。同時に、学校以外の選択肢を社会的に育て、なおかつ貧しい家庭には教育費用などを給付するといった政策を行う。そうした提言を、丁寧に行っていくことが必要です。
教育問題に「特効薬」はないのです。

(この記事は教職員共済だより159号(2016年7月発行)に掲載されたものを再掲載しています)

著者プロフィール

荻上チキ

荻上チキ

1981年生まれ。シノドス編集長。評論家・編集者。

主な著書に『ネットいじめ』(PHP新書)、『社会的な身体』(講談社現代新書)、『いじめの直し方』(共著、朝日新聞出版)、『ダメ情報の見分け方』(共著、生活人新書)、『未来をつくる権利』(NHK出版)など

NPO法人ストップいじめ!ナビ http://stopijime.jp/